第三話 ブルボン王朝の二人のニューハーフ


いつの時代にも、ニューハーフはいた。性同一性障害とかトランス・ジェン
ダーとかいうよりも、むしろ、この現代風「ニューハーフ」の方が表現として
適切なケースだ。

彼らは、宮廷や社交界でも、あるいは外交の国際舞台でも、嬉々としてドレ
スで着飾ったし、皆に「美しい」と賞賛されることを楽しみに生きていた。自
分の秘められた趣向ではなく、そういう存在であることで世間を渡って行こ
うとした。

  
 アン・ボニー             メアリ・リード

ここで紹介する2例は、いずれも女性として生きた男の話であるが、同時期
には、アン・ボニー(1700〜82)やメアリ・リード(1721没)のような有名な男
装の女海賊がカリブの海で活躍していたのだから、素敵な時代である。


さて、一つは、フランソワ・ティモレオン・ド・ショワジー(1644〜1724)の話。


アベ・ド・ショワジー

父親がラングドック地方の知事だったので、家柄は新興貴族。もっとも曽祖
父はノルマンディー地方の酒屋の生まれで、宮廷の納入業者として財を築
き、祖父の代になって、チェス仲間だった大蔵卿オー侯爵のツテで国務会
議の一員に抜擢、アンリ4世の治世に貴族に列せられたというから、商人
から官職、そして貴族という流れを2代で築いた家柄だ。

ともかく、彼は、知事の息子として生まれた。母親は、宰相ミシェル・ド・ロピ
タルの孫娘にあたるが、この母親が、当時の社交界でも評判な陰謀家で、
策謀家で、何しろえらく活発な婦人だった。

この母親のおかげで、聖職者(貴族の三男坊としての順当な路線)になるべ
くソルボンヌを出たときには、彼にはすでに多くの庇護者が社交界にそろっ
ていた。

当時の子供らは7〜8歳頃まで、女の子の服などをあてがわれて可愛がら
れる習慣があったが、彼は18歳までスカートをはかされていた。いつまでも
美に執着の強かった母親ショワジー夫人が、その心理の投影なのか、好ん
で息子を「美少女」として連れ歩いたのだ。

 
国王ルイ14世と王弟フィリップ

また悪いことに、当時、父が仕えるようになっていた王弟フィリップ殿下が、
当時の宰相マザランの思惑もあって、女のように育てられていたという環境
も味方する。前王ルイ13世のとき、王弟ガストン殿下がことあるごとに謀反
を起こした苦い体験上、新王ルイ14世の弟フィリップ殿下には、そんな野望
や乱暴を育ちの過程で削ぎ落としてしまおうとしたのである。

そこで、まんまと、この王弟フィリップ殿下、歴史上でも有名な「同性愛者」
として成長してしまった。(もともとの素因もあったのだろうが)

そんな王弟の宮廷で、彼は、ドレスをまとって、優雅に王弟殿下の小姓らと
舞曲を踊り、皆がその美しさに陶然とする.....そんな日々。すでに、母親ショ
ワジー夫人の趣味とは別に、彼自身が、自分の中の女性性に目覚め、ドレ
スを着飾り、装身具を身につけ、化粧をして魅惑的な女になりきることに、
深い喜びを感じていた。(彼自身がそれを自伝に書いている)

ソルボンヌで神学を学んでいた頃は、さすがに女装もひかえていたが、そ
の反動でか、卒業後、ボルドーに逃げ出し、そこで、旅の一座にもぐりこむ
と、「女優」として舞台にデビューしたりしている。その5ヶ月間、ついに彼を
男性だと見破る者は一人もいなかった。いよいよ、自信もつくというもので
ある。体毛の処理や胸の膨らみも、当時として知られている限りの技術で
対処していた.....

          当時の貴族男女

彼は、正式に聖職者となるが、貴族の次男坊や三男坊として当たり前の選
択肢で、僧院つきの不動産を聖職権をもって所有、地代などの収入を確保
するだけの話だ。だから、社交界には、おしゃれで女たらしの司祭など沢
山いた。彼も「神の本性とは愛され賛美されること」と解釈、男もその意味
において女装が効果的であればそうして、愛される無上の喜びを味わうべ
き、などと説いている。

ショワジー師が所有していたサン・セーヌ僧院

TPOをわきまえて女装をするべきと考えていた母ショワジー夫人が亡くなる
と、彼は、宮廷のお歴々の支持のもと、より大胆に女装をするようになる。
すでに他界した父親からの遺産もあるし、サン・セーヌ修道院などからの収
入も多い彼は、いよいよ奔放に「その道」の求道者と化す。

そこで、ショワジー師は、地方へ移転する。デ・バール伯爵夫人とかド・サン
シー夫人とか名乗り、宮廷やパリならば彼の出自を知っている上流人も多
いが、地方都市に入れば、「本当の貴婦人」として生活出来るわけだ。

その時期の生活を記録したものが、「女装冒険譚」(あるいは「女装の聖職
者ショワジー師の回想録」)である。これは彼が宗教的な回心に目覚めた年
(1683年)よりも後に著された回想録だが、まったく後悔やら自戒やらの念
のひとつもない内容だった。

彼は、その自分の趣向に、まったく否定的ではないし、世間の目も気にし
ていない。(むしろ目をひこうとしている)それはそれで完成されたひとつの
人生という趣がある。1672年5月のメルキュール・ギャラン誌に「綺麗だか
らと女の服を着た貴族がいて、言い寄る男もいる」という小噺が掲載され、
それを読んだ彼は、それを「賞賛」として受けとめ、実名を出すべきだと感
じているのだ。

  
 ラ・ファイエット伯爵夫人   ラ・ロシュフーコー公爵     モントージエ公爵

パリのサロンでの名流人の中にも、亡き母親のブレーンがいた。「クレーヴ
の奥方」の作者ラ・ファイエット伯爵夫人などもその中の一人で、彼に「あな
たは女の格好の方がお似合いですわ」と支持してくれた。夫人を介して知
り合ったあの「箴言録」の作者ラ・ロシュフコー公爵も、彼の女装を支持し、
社交界の賛否を誘導してくれた。それがきっかけで、「完全女装」へ彼も踏
み切ったのだが、モントージエ公爵のように、口うるさく批判する宮廷人も
おり、ついに彼は、パリを飛び出す。

デ・バール伯爵夫人と名乗ってブールジュ近くに居を構えた彼は、さっそく
ダヌクール士爵という元銃士の貴族に言い寄られるが、彼は、女装はする
があくまで異性愛者で、それを断っている。そして、ド・ラ・グリーズ嬢という
美しい貴族の令嬢に接近し、恋愛遊戯を楽しむが、相手が結婚すると、途
端に関心を失う。そして、ある一座の女優ロズリーと一緒に住むようにな
り、彼女を男装させてパートナーとして、自分は異性装はやめない。

そして、ロズリーが妊娠すると、もはや田舎町では人目もあり都合が悪い
ので、ここでまたパリに戻ることになる。

生まれた娘は、16歳で立派な貴族に嫁がせたようだが、そんな子育てとは
裏腹に、彼は「美しく着飾って」、ロズリーや女友達らとパリで遊んでいる。
体はあくまで男性として機能しているが、美しい女性であろうとする彼であ
った。



ジョワジー師はこのパリでもまた、今度はド・サンシー夫人という名で生活
する。サン・メダール教会で女性として義捐金を貧者のために集めたり、相
変わらず人目に触れることを楽しんでいる。

また、シャルロット・モルニーという令嬢と、男・女の性別を入れ替えての結
婚セレモニーなども開いて世間を騒がせた。

しかし、パリである。女装をしたこの男性が物見高い連中の噂にならない
はずがない。たちまち、彼の生活圏は狭められてしまい、ついに彼も「いさ
さか度が過ぎた」と反省し始める。

そして、久々に、女装をやめて、王弟殿下のもとへ戻ったが、今度は、どう
しても制御できない「賭博癖」のとりことなってしまった。

当時は賭博は社交界で「たしなみ」みたいなものではあったが、エスカレー
トして一財産を失う貴族も多かった。彼もそんな男の一人となる。実入りの
良い所有財産も売却し、借金は膨らむ。

                     
ブイヨン枢機卿             シャム王に謁見するフランス使節

聖職者としてブイヨン枢機卿に従って法王選出選挙(コンクラーベ)のためロ
ーマに出向いたのも、激しい取立てにうんざりしたからだった。ローマでも
当然、彼は賭け事に入り浸る。

しかし、その頃から、どうしたわけか、彼は、今まで「肩書」や「財産」に過
ぎなかった「聖職」というものに、急激に目覚めていく。霊魂の不滅や神の
実在などへの関心が急速に高まってゆくのだ。

そうなると賭け事のテーブルも遠ざかるし、女装癖もぶり返さない。そんな
最中に、彼は病気で倒れ、いわゆる「臨死体験」をする。そのスピリチュア
ルな体験を経て、いよいよ、彼の宗教性は支配的になっていく。

そして、ブイヨン枢機卿の口利きで、シャム王国への大使として、シャムの
王様をキリスト教に改宗させる任を帯びたショーモン士爵の随行員となる。
これは大冒険だ。タイまでの航海だけでも半年はかかる。しかし彼は意を
決してロワゾー号に乗り込んだ。

結局、シャム王を改宗させるには至らなかったが、様々な体験を積んだ彼
は帰国する。しかし、その間に国王の不興をかって追放に処せられた恩人
ブイヨン枢機卿を、何とか救済しようとしたために自らも国王の不興をかい
宮廷から遠ざけられてしまう。



それからのショワジー師は、11巻に及ぶ「教会史」の執筆をはじめ、歴史書
や文学書、シャムの体験記の執筆・出版に没入するのだが、ここで再び賭
博癖と女装癖がぶり返してきた。しかしすでに収入も限られていたし、彼は
書斎で品の良い「老婦人」の格好で執筆をする日々、を送るようになった。
そして、アカデミー・フランセーズ会員にもなった。

彼は、自らの神秘体験もあり熱烈なキリスト教徒へと豹変したが、それでも
なお、女装癖、そして賭博癖という「弱さ」を矛盾なく内包しつつ、それなり
に困った事件を起こしたり、悲しい思いも多々味わったが、その分、楽しん
だし、喜んだし、ともかく、ひとつの人生を完成させたのである。

1724年10月、80歳で、そんな人生を終えた。




そして、もうひとつの話は、シャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オーギュスト・
アンドレ・ティモテ・デオン・ド・ボーモン(1728〜1810)である。通称シュヴァ
リエ・デオン(デオン士爵)。


シュヴァリエ・デオン

祖父は国務評定官でディジョン北西の町トンネールの市長。父はやはりトン
ネール市長となり、パリ高等法院弁護士、パリ総徴税区監督官代理官など
歴任。ショワジー師同様、司法系貴族、つまり法官貴族だ。

ショワジー師が生涯を終えた4年後の生まれで、時代はルイ15世の御代に
うつっていた。彼もコレージュ・マザランという貴族の子弟ばかりの入るエリ
ート校に入れられ、法学に教会法、そして乗馬、ダンス、剣術などを習得。
とくに剣術は彼の才能が最も顕著に発揮された特殊技能だった。

しかし、彼の体つきは華奢で、胴回りも細く、手も優雅で足も小さい。金髪
に青く澄みきった瞳で、たちまち社交界でも評判の美青年となる。(彼もや
はり7〜8歳まで女の子の衣装を着せられていたが、前述のショワジー師の
幼少期に見るように「習慣」に過ぎない)

  
ポンパドゥール侯爵夫人   青年デオン       ベルニス師

デオン青年は、社交界での人気もよそに、女性との浮いた噂ひとつない人
物だった。当時の社交界としてかなり稀有なことである。ロマネスクな恋愛
遊戯どころか、むしろ学究肌で、経済や歴史などの論文を発表して、サロン
で歓迎されたり、まるでアカデミストだ。ともかくそこで、後の外務卿ベルニ
ス師や国王の寵姫ポンパドゥール侯爵夫人などの関心を買った。そんな流
れに乗り、彼は、歴史・文芸王室検閲官に任命される。

そして、間もなく、その才能と美貌によって、とある人物に紹介される。

  
  コンティ公爵    両性衣装のデオン   エリザヴェータ女帝

その人物とは、コンティ公爵。彼は、ルイ15世の直属の「機密局」を主宰す
る貴族で、それは国王が個人的に組織した秘密機関だった。

こうして、彼はたちまち数奇な運命に巻き込まれてゆく。いきなり、ロシアへ
の外交使節となり、当地のエリザヴェータ女帝への接触を非公式に行う任
務に参加することになるのだ。

派遣されるのはダグラス・マッケンジーというイギリス貴族で、毛皮商に変
装しているが、実はフランス政府の機密局員。そして、デオンは、それに随
伴するわけだが、なんとダグラスの「姪」という立場。

つまり、かねてから評判の女性らしい美貌の持ち主だったデオンを、女装さ
せて女に仕立て上げ、毛皮商の姪っ子に変装させたわけだ。名もリア・ド・
ボーモンとなる.....

かくして、秘密外交の任務という形で、彼の「女装」は始まった。1755年7
月、デオンの一行はサンクト・ペテルブルクへと向かった。

  
 宰相ベストゥージェフ     女装のデオン 副宰相ヴォロンツォーフ

そして、ダグラス局員が当地での政治交渉に失敗し、宰相ベストゥージェフ
に正体を見破られたとき、デオンは宰相と対立する副宰相ヴォロンツォーフ
に女帝への取次ぎを画策した。その時、初めて、彼の「美しさ」が証明され
ることになる。つまり、副宰相はメロメロになって、このフランス美女の密使
の願い出をすべて承諾するのだ。

デオンは、エリザヴェータ女帝をも魅了し、任務のすべてを完遂し、ロシアと
の外交関係の復活、大使の派遣を承認した女帝の親書をたずさえて帰
国。国王は大変に彼の働きに満足した。

正式に全権大使となって再びロシアに赴任するダグラスに今度は、男とし
てデオンは随行する。美しきリア・ド・ボーモン嬢の兄ということで。


ロピタル侯爵

ダグラスが失策で解任され、後任のロピタル侯爵がフランスから派遣され
た頃、デオンはかなりの外交的成功をおさめていた。それは、トルコ帝国を
めぐってフランスとの同盟に難色を示していた女帝を、その寵臣シュヴァー
ロフを篭絡することで味方に引入れ、女帝を説得、ようやく宮廷内の反フラ
ンス派を抑えて、目的を達成したのである。これらのことをデオンがひとりで
やってのけたのだから、ヨーロッパの外交を覆す一大成果である。(西洋
史・おもしろ話集「フランス史上の私情」七年戦争の話参照)

こうして、その外交手腕を認められたデオンは、新任の大使ロピタル侯爵
のもとで、かなり派手派手しくロシアの都で生活することになる。

と、ここで、また不思議なのは、彼にはそんな場面でも、女の影がないの
だ。噂話ひとつとしてない。

ところが、ある書簡から察するところ、彼は大使ロピタル侯爵と同性愛の関
係にあったようなのだ。文面が、まったく「愛する女」に向けられたようなも
のばかり。

デオンは、政府の都合で女装をさせられ、女になりますしていただけではな
く、その過程で、密かな自分の趣向に目覚めてしまっていたらしい。

ちなみにこのロピタル侯爵、出自をガルッチオといい、中世の昔にナポリか
らフランスに移住した一族の出だが、上述のショワジー師の母親と同系の
家柄だ。

彼は、じき体調不振となった。ロピタル侯爵も後任のブルトゥイユ男爵と交
代する。彼はもう厳しい気候のロシアにこれ以上滞在したくなくなる。

それに、1758年、彼は竜騎兵連隊隊長のポストを約束されている。帰国し
て、自慢の剣術を役立てる軍人としての自分への渇望がわきおこる。

女装に悦に入る反面、彼には、こうした男性的趣向もあるのだ。

  
   乗馬姿のデオン     デオン肖像画    当時のフランス竜騎兵

帰国し健康を取り戻した彼は、七年戦争末期の戦場に、その竜騎兵として
の勇姿を見せた。そして、ドイツの戦野でブロイ元帥配下の指揮者として武
勲を立てた。この戦場で、ゲルシー伯爵という男と出会うが、そのときから
意見が食い違う男ではあったが、後に、大変な対立を生む相手となる。
ともかく、デオンは、1761年11月にはウルトロプの戦でスコットランド軍
を、またオステルヴァイクではプロイセン軍を潰走させ、武勲赫々たるもの
があった。

しかし、ヨーロッパの外交情勢の変化もあって、再びデオンの外交手腕が
必要になった政府は、彼を戦場から呼び戻した。

そして、今度は、二ヴェルネ公爵とロンドンに飛ぶ。有利な和平交渉のため
の画策である。ここでもまた彼は、巧みな社交術と驚くべき大胆さとで、ま
んまとイギリス外相補佐官を罠にかけて、作戦を成功させている。まさに、
ちょっとしたスパイ映画の主人公なみの活躍である。

ところが、二ヴェルネ公爵が帰国して後任大使に、かつて戦場で対立した
ことのあるゲルシー伯爵が赴任することになる。大使不在の間、デオンは
全権公使として大使代行をするが、その名誉も束の間にして最後の晴れ舞
台となるのだ。

相変わらず国王の「機密局」とつながっていた彼は、大使ゲルシーの挙動
を見張るというものもあったが、全権公使という正式な晴れ晴れしい地位を
味わった彼には、どうにもそれが腑に落ちない。背後に国王や重臣がつい
ている彼は、強気であるし、また様々な機密書類もにぎっていた....

 
          女装のデオン     国王ルイ15世

1763年10月、ゲルシー大使が着任する。すると、正式ルートの命令書に
は公使職の解任と速やかな帰国が記されていたが、国王からの私信に
は、再び女装してロンドンシティに潜伏し、別命を待て、とあった。

明らかに、国王は、公開されては一大事の機密書類のことだけを気にして
いた。デオンにもそれが明々白々だったせいか、彼は正式な新任大使ゲ
ルシーに、外務省からの命令には一切従う気はないと宣言する。

こうして、ロンドンでも評判な全権公使と大使との闘争劇が開始されたわけ
だ。

ゲルシーは様々な手段を弄して、デオンを攻撃した。ヴェルジーとかいうヤ
クザ者を使って強迫したり、毒殺未遂事件まで起こした。しかし、デオンは
ヴェルジーを逆に、得意の剣術で追い返し、毒殺もまんまとかわしてしま
う。フランス政府はイギリス政府に彼の召還要請をするが、イギリス議会は
それを拒否し、「解任」だけにとどめた。デオンは正式に解任され、外交官
生活は正式に終わるが、イギリスに留まることはできた。

まだ、機密書類という手の内は残されたままだ。そこで、彼は「大英帝国の
許におけるフランス全権公使ジュヴァリエ・デオンの書簡、回想、ならびに
私的交渉」という暴露本を出版、たちまちベストセラーとなった。

 
     プララン公爵             アニメのデオン

しかし、フランスでの支持者らからの資金も途絶し、年金も支給停止され、
外務卿プララン公爵からは、彼の捕縛を目的にならず者どもが派遣される
はで、まったくの四面楚歌となる。

そんなとき、なんと彼を脅迫すべく接近してきた先のヴェルジーが、今まで
の事の経緯を暴露する書物を刊行。つまり金に困窮していた自分を散々利
用し、人殺しまでさせようとしたゲルシー伯爵のことなどを世間に暴いたの
だ。

あまりの破廉恥さに駐英大使ゲルシー伯の立場はたちまち危うくなる。国
王からの召還状も届く。地位を失った彼は帰国し、2年後に他界した。

新任の大使デュランはデオンとは旧知の間柄だった。また、ゲルシーとの
角逐ですっかりロンドンで人気者になっていたデオンは、秘密裏に国王から
和解金なども支給され、そのまま英国に留まる。

国王ルイ15世の新しい愛人デュ・バリー夫人の暴露的中傷本を発行しよう
とロンドンに潜伏していたモランドという男に、フランス政府からの頼みで発
行差止の交渉を成功させたり、彼はそれなりの活動も続けた。

1770年頃から、ロンドンでも少し厄介な噂が流れ始める。それは、デオン
が実は女である、という噂だった。それに輪を掛けたのが、ロシアの政争で
ロンドンに亡命してきたあるロシア皇女の証言。「彼はロシアで娘として任
務についていた」というものだ。

たちまち、「ロンドン・マガジン」にも漫画が載り、小唄が歌われ、世間はこ
の問題にわきかえる。確かに、彼は男にしては美しい。その内、駐英フラン
ス大使のシャトレ伯爵などは、彼が女であることを確認した、と国王に報告
する始末、本国パリでもこの風評は盛り上がった。



ここに、デオン特有の、自己顕示欲の強さが頭をもたげてしまう。

そして、彼は、あるフランスからの特務員に対して、こう告白した。
「実は私は女性なのです。あらゆる貴族の家柄がそうであるように、男の世
継ぎをとりわけ望んでいた両親は、私に別の性を課したのです」

ドイツの戦場で勇名を馳せ、フランス大使を向こうに回して徹底抗戦した気
丈な外交官が、実は「女性」だった! ともなれば、センセーショナルな話で
ある。彼はそれを見越していた。75年にはブロイ伯爵へも文書を送付す
る。「戦場と政界において、あなたが会われていた竜騎兵連隊長は、もっ
ぱら男の姿をしておりました。実は私は一介の娘であります」と。

こうして、彼は、「女」として認定された。

そんなおり、ルイ15世が崩御して、若きルイ16世が即位。機密局の責任
者だったブロイ伯爵は、さっそくその存在を新国王に教えた。国王は機密
局の廃止を決定。局員らへの慰労金の支給を命じた。デオンにも局員内で
は2番目の高額が支給される決定がなされたが、それはともかく彼の所持
する機密書類の奪還のみが目的だった。

 
ヴェルジェンヌ伯爵

新しい外務卿ヴェルジェンヌ伯爵は、交渉役をデオンのもとへ派遣するが、
こくごとく拒絶される。二人目の交渉役など、いきなりデオンに結婚の申し
出をしたので、彼は呆れるばかりだった。

彼はそろそろ帰国を考えていた。機密文書も時が経てば価値も薄れる。し
かし、借金も嵩んでいた彼には、まだ、金額をふっかける必要もあったの
だ。

 
   ボーマルシェ   女たらしのボーマルシェ(映画より)

そうこうする内に、今度は、交渉役にあの「セヴィリアの理髪師」の作者で
有名なボーマルシェがやってくる。この男はしたたかなペテン師で、その才
能を活かしてか、今は政府の特務官のような仕事をしつつ、百戦錬磨の手
練手管で交渉の任をこなしていた。

ところが、このボーマルシェ、ある意味、かつてのデオンのような抜け目な
い男も、たちまちデオンに求愛するという始末。そして、すっかり彼に恋す
る男に成り下がってしまったのだ。この辺りも、デオンの魅力、天晴れなも
のがあると言わざるを得まい。

ボーマルシェは国王や高官の間を東奔西走してデオンのために動いてくれ
たが、色々な行き違いの末に、ふたりの仲も終わる。

しかし、デオンは、帰国したい一心で、しばらくするとすべての条件をのん
だ。病気で気弱になったこともあろう。外務大臣ヴェルジェンヌからは、過去
に知り得た外交上の機密の口外禁止などの他に、風紀風俗の問題から
「二度と男性の衣装は着ないこと」という条件まで付された。

    
マリー・アントワネット妃      ローズ・ベルタン

この噂で、彼にあてがう女性の衣装一式の提供を申し出たのは、王妃マリ
ー・アントワネットだった。あのファッション大臣ローズ・ベルタンにデザイン
させ、二万四千リーヴルもの下賜金まで付けて.....。ともかく、そこまで、女
騎士デオンの評判は世間の噂の種だったわけだ。

彼はアメリカ独立戦争への従軍を嘆願したりし、それを断られた腹いせに、
もとの竜騎兵の姿で宮廷近くを闊歩したりしたあげく、故郷のトンネールの
母親の元へ強制送致されることになる。

アメリカが独立し、パリ条約が締結すると、もはや敵国ではなくなったイギリ
スへの渡航が許される。デオンは、金銭問題の事務処理という理由で、17
85年11月、再びイギリスに渡った。

しかし二度と故国フランスへ戻ることはなかった。

依然、イギリスでのデオン人気は盛んだった。もともと長くロンドンに住んで
フランス政府と折衝していたデオンのことだ、市民も仲間のように見ている
し、彼自身も第二の祖国のような気持ちでいた。

イギリス社交界でかなりの人気者であったデオンだが、こと金銭の問題と
なると淋しい限り。そこで、彼は得意の剣術で、賞金稼ぎを始める。

 
  剣豪サン・ジョルジュ     サン・ジョルジュとデオンの公開試合

ロンドン最強の剣士サン・ジョルジュは、フランスから渡ってきて、剣技一筋
で生計を立てているツワモノだ。デオンはこの有名人相手なら見世物にな
るとふんで、公開試合をセッティングする。

1787年4月、ウェールズ公爵臨席のもと試合は行われ、ドレス姿のまま
試合に挑んだデオンは、若きサン・ジョルジュを完膚なきまでに破り去っ
た。デオンは正真正銘の剣の名手だったようだ。

60歳を超えるまで彼は見事な剣技を披露して回ったが、とある試合で負傷
してからは引退する。もはや、祖国フランスも大革命で帰れる状況ではなく
なった。もう凋落の運命に身を任せる他ない・・・・

彼は友人の海軍技術官の未亡人メアリー・コール夫人の世話になり、「老
婦人の二人暮らし」を慎ましやかに送る。



借財に追われた彼は76歳にして負債者監獄に投獄されたりもした。
古い知人で今ではナポレオンの信任厚い人物が帰国のとりなしをしてくれ
たりもした。しかし、彼にはもう、その気力すら残されていない。

そして、1810年5月、82歳の生涯を終えた。

と、ここで、デオンは、しっかりと英仏の両国民を驚愕させる最後のお騒が
せを用意していた。

そう、検死結果だ。公式な医師による検死結果は、「彼女は疑いもなく立派
な男性であった」というものだった。この記事はタイムズでも報道され、15
年間デオンと同居していたメアリー・コール夫人ですら愕然としたほど。

こうして、数奇なるシュヴァリエ・デオンの生涯は、最期にますます数奇さを
増してから終わりを告げた。



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