第二話 経済学の父、復讐鬼と化す

フランソワ・ケネー(1694〜1774)は、今でこそ農業の生産性向上を説いた
「経済表」で名高い「重農主義経済学の父」であるが、最初は、ヴェルサイ
ユ近郊で開業する外科医であった。

経済学を志したのが50歳代なので、その謹厳実直さがうかがわれる。確か
に、彼は誰からも慕われる教養と学識のある誠実な人物だったようだ。

1749年、彼は、すでに50歳半ばであったが、少しは名の知れた外科医とし
てメレという町で開業していたが、そこに、一人の美しい婦人が来院する。

誰あろう、国王ルイ15世の公式愛妾だったポンパドゥール侯爵夫人だっ
た。
  
  フランソワ・ケネー     ポンパドゥール侯爵夫人    国王ルイ15世

この婦人は、町家出身だったが、才色兼備、ウイットに富み、センスが洗練
された女性で、国王の情愛を独占していた。国王の寵姫となり、貴族称号
まで授かり、公的な権力すら国王の後ろ盾のもとに濫用できる立場に昇り
詰めていた。

彼女はたちまちこの名外科医を気に入ってしまい、なんとケネー医師を正
式に宮廷医としてヴェルサイユに招く。

こうして、彼は、50半ばにして、静かな町医者としての人生から陰謀渦巻く
王宮の世界へとその舞台を変えることになったわけである。

それでも、彼は、宮廷医としての職責を果たしつつ、当時の啓蒙主義的な
学識者らとの交友を楽しみ、その温厚で人好きのする人柄から、誰からも
親しまれる存在として生活していく。

    映画の中のポンパドゥール侯爵夫人と国王       ポンパドゥール侯爵夫人

1750年には国王の侍医となり、56年には主席侍医。またポンパドゥール夫
人のサロンで交わったディドロやダランベールといった思想家たちが編纂し
たあの「百科全書」に、自分の哲学論文や経済学論文を掲載するなど、彼
の人生は夫人のおかげで飛躍的な進展を遂げていった。

ところが、宮廷の陰謀や女好きの国王の気持ちをつなぎとめておく気遣い
に疲れ果てたポンパドゥール夫人が、1764年の凍りつくような雨日に、息を
ひきとる。ショワジー城で病床に伏していたが、どうしてもケネーのいるヴェ
ルサイユ宮に戻りたいと彼女は国王に懇願、王族以外は王宮で死ねない
という慣習を破って、王は彼女を王宮に戻したが、その甲斐もなく、彼女は
40歳という若さで死去した。

ケネー氏には遺言で4000リーヴル送られたが、彼にはそのようなお金を受
け取るよりも、果たさねばならぬ使命があった....

財務評論の雑誌の編集者だったル・ロワ・ラデュリが、ポンパドゥール夫人
が亡くなって間もない頃、ケネーの弟子である経済学者デュポン・ド・ヌムー
ルとケネー氏のもとを訪れたときのことだ。

ケネー氏は生気のない浮かぬ顔、、経済学の質問にも心ここにあらずの様
子なので、夫人の死について、人の生死はすべて神の御意志だと話をして
みたら、皮肉っぽく目を向けて、こう言った。「ヴェルサイユにブランヴィリエ
侯爵夫人の幽霊が現れたのだよ」と。

このブランヴィリエ侯爵夫人とは、ルイ14世時代の有名な毒殺事件の女主
犯者の名。言うまでもなく、夫人の死が、神の意志などではなく、人の手に
よる謀殺であることを揶揄しているのだ。

彼女の健康状態を誰よりも知り尽くしていた侍医ケネーのことだ。その死に
至るまでの症状が充分に「何かの毒」によるものであると推察することは可
能だったろう。
 
 ヴァンティミーユ侯爵夫人        シャトールー公爵夫人

彼女が国王に見初められる前も、国王の愛人のヴァンティミーユ侯爵夫人
やシャトールー公爵夫人があっけなく死んでいるのだ。この宮廷では、何が
起こっても不思議ではない妖気が漂う。ケネー医師も、そんな何かの疑念
を持ち続けたのだろう。思えば、知性と美貌のパリ娘(ポンパドゥール夫人)
によって身に余る栄誉を与えられた農家出の自分が、彼女の無念を晴らさ
ずして誰がそれをやるか? と義憤に燃えてもおかしくはない。

ともかく、この夫人の死の年の暮れ、この謹厳実直の堅物ケネー氏は、ど
うしたわけか、王妃マリー・レクザンスカの女官長ブティリエ侯爵夫人という
女性と老いらくの恋を始めている。

当然、宮廷でも噂となる。ケネー氏の性格上、あり得ないことの展開だ。だ
が、口さがない連中は、自分の保護者を失ったケネー氏が、あわてて王妃
に取り入るためにツテを利用し始めた、と陰口をたたいた。

何とでも言わせておけ、と彼は思ったろう。

ポンパドゥール夫人は歴代の国王の愛人に比べれば王妃一派とは敵対し
てなかった。それでも、王妃としても、夫人と王との関係が長年に渡るに至
っては、息子の王太子夫婦が夫人と徹底的に敵対していたこともあり、公
式の席で侮辱したことも多い。夫人とは「敵方」になるのが王妃だ。

しかし彼は、まんまとブティリエ侯爵夫人の仲介があってのことか、翌年に
は王妃の侍医に就任している。

それからが、ヘンなのだ。

まずは用済みのブティリエ侯爵夫人、とある若者に刺殺されて果てた。
  
 王太子ルイ・フェルディナン   王太子妃マリ・ジョゼフ    王妃マリー・レクザンスカ

そして、もっともポンパドゥール夫人と敵対していた王太子ルイ・フェルディ
ナンが1765年に36歳で死ぬ。

また、2年後の1767年には、夫とともにポンパドゥール夫人を忌み嫌ってい
た王太子妃マリー・ジョゼフも35歳で死去。

そして、その1年後には、ついにマリー・レクザンスカ王妃自身も他界した。

宮廷の人々はこれら一連の宮中の不幸は、ポンパドゥール夫人の祟りだと
噂したらしい。

この3人に健康管理者として身近に仕えていたケネー氏は、ある友人にこ
う語っていたという。
「3人の死は避けられない運命だった」と。

公式には病死。これも確かに避けられぬ「運命」ではある。

でも、ある人物を共謀の上に毒殺したあげく、その人物の復讐のために鬼
となった男によって、因果応報の結果に追いやられたとしても、それは「避
けられぬ運命」なのである。

ケネー氏は、これらの事件の後、宮廷医の職の一切を辞して、また町医者
に戻ってしまった。

そう、まるで、すべての目的を果たし終えたかのように......。



もちろん、これらの事件の真相は他にあるかも知れない。少なくともフランソ
ワ・ケネー氏を復讐鬼だとする歴史書は一切存在しない。

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